地方の空き家を活用したサステナブルなリノベーションビジネスの可能性
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こんばんは。
本日は、定休日ですが
大阪 中之島の公会堂で
TILE WEEK +2022が開催されるとのことで
コーディネーター菅野さん
設計 石田さんと行って来ました。
昨日と変わって、とてもいい天気でした。
公会堂までの散策も心地よい1日でした。
【大阪市中央公会堂 ホームページより】
中之島の、そして大阪市のシンボルともいえる公会堂。
かつて、その誕生のために莫大な私財を投じながら、完成を待つことなくこの世を去った人物がいた。
それが、「義侠の相場師」ともいわれた株式仲買人、岩本栄之助である。
岩本栄之助は1877年(明治10年)、大阪市南区(現在の中央区)にあった両替商「岩本商店」の次男として生まれた。
小学校を出て進学した大阪市立商業学校を卒業後は、外国語学校などに通う傍ら家業の手伝いを始めるが、1904年(明治37年)に日露戦争に出征。
除隊後の1906年(明治39年)3月に家督を継ぎ、正式に大阪株式取引所の仲買人として登録されることになった。
栄之助が仲買人となった直後の1906年(明治39年)5月、北浜の大阪株式取引所を日露戦争終結に端を発する空前の暴騰が襲う。株価は急騰し「買えば必ずもうかる」とささやかれた。
このとき、北浜の仲買人の大半は、いずれ暴落することを見越して売方に回っていた。
しかし、株価の暴騰は止まらず、多くの仲買人は破産寸前の状況に追い込まれることになる。
そこで彼らが頼ったのが栄之助であった。
手堅く買方に回っていた彼に売方に転じてもらい、株価を下落させようとしたのである。
買方として得た利益を吐き出してくれというこの常識外れの懇願を栄之助は快諾。
「父親の代からお世話になっている皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と答えたのである。
この結果、翌年1月21日に株価は大暴落。
売方である北浜の仲買人は破産を逃れ、莫大な利益を手にし、栄之助自身も大きな利益を得たのである。
北浜の仲買人らは、「岩本さんには足を向けて寝られない」と感謝したと言われている。
また、「学問せなあかん」が口癖の栄之助は、証券取引所で働く少年たちのために、学校に行くように勧めると共に、私財を投じて塾を作るなどしたため、ますます人気が出ることとなり、「北浜の風雲児」と称えられた。
その栄之助が、仲買人として働き出した当初から強い関心を抱いていたのが、株で得た利益を公共のために活かすことであった。
そうした栄之助の思いをさらに強くしたのが、1909年(明治42年)の「渡米実業団」への参加である。
初めて異国の地を踏んだ栄之助は、米国の富豪の多くが財産や遺産を慈善事業や公共事業に投じていることに、強い感銘を受け、大阪の地にもどこにも負けないホールを建設しようと決意する。
旅の途中、父・栄蔵の訃報を受け取り緊急帰国した栄之助は、父親の遺産の50万円に、自分の手持ち財産を加えた100万円を大阪市に寄付する。
現在の貨幣価値でいえば数十億円という巨額であった。
当初は、公園や学校の整備などさまざまなプランが出されたが、最終的に公会堂の建設が選ばれたのは、母親の「誰にでも使ってもらえるものを」というアドバイスがあったといわれている。
1914年(大正3年)に株式仲買の第一線から身を引いた栄之助であるが、翌年には再び株式仲買の世界に身を投じる。
しかし、第一次世界大戦勃発の影響による高騰相場で、莫大な損失を出してしまう。
周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧めるが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。
1916年(大正5年)10月、自宅でピストル自殺の道を選ぶ。
栄之助が生死をさまよった5日間、彼に恩義のある北浜の仲買人らは、大阪天満宮で夜通しかがり火をたいて無事を祈ったが、10月27日、栄之助は享年39歳でその人生を終える。
栄之助が夢見た公会堂は、その死から2年後の1918年(大正7年)年11月に完成。
現在は国の重要文化財にも指定され、いまなお市民の文化・芸術の活動拠点として親しまれている。
岩本栄之助 辞世の句
「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」
美しいって、いいですね。
家づくりの思いを彩るタイル。
菅野さんも石田さんも
キラキラしていました。😊
ご縁をいただいたお客様との打合せ楽しみですね。🌈🌈🌈
この記事を書いた人
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